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ああ しんどかった

 友人って、有難いなあとつくづく思う。
もう20数年前になるかしら、カラオケが流行り出した頃だった。店で何一つ歌えなかった惨めさに悩んでいた頃、舞い込んで来たのがシャンソン教室のチラシだ。見学可能のキーワードに吸い込まれる様に、出掛けて行った。そこには同じ年頃の女性が、上手とは言えないが、懸命に先生の歌われる唄を口移しに覚えている情景を見て、これなら私にも出来ると思い、その場で申し込みをして、門下生となったのだった。
 何年か歳月が流れ、発表会には人前で歌える様になった頃、と言っても所詮素人の遊び事です。改まって聴いて貰える程ではないのに、どう言う訳か、プロのシャンソン歌手に交じって、コマ劇場(今の梅田芸術劇場)に出演する事になってしまったのです。せり上がりの舞台も回り舞台もあり、1900人は入る劇場でもある。ここでの公演は役者冥利に尽きるとも言われているらしい。
 畳2畳ほどのせり上がりの舞台で、自分の出番を待つのだが、乗ったとたんその舞台はするすると上がり出した。180cm位の深さで止まった。そこがスタンバイの位置らしい。普通に立てば客席から頭が見えてしまう。少々中腰で待つのである。前の人が元気よく歌っている唄声とバンドの音が、まるで霰(あられ)の様に、コロコロと降って来る。もう私は何を歌うのかも分からない状態になっている。どうやら前の人の唄が終わったらしい。断りもなく私が乗っている舞台はぐんぐんせり上がって行くではないか。もう戻れない。前の人の音楽に紛れて私の唄はどっかに飛んで行ってしまった。どうする佳音! 誰も助けては呉れない。喉はからから、足は小刻みに震える。大きな拍手と共に、私の曲が鳴り始めた。客席が見え出した。ライトのため、前2列位しか見えない。あとは大きな闇の世界である。自分だけが晒し物になっている様だ。どうしよう、どうしよう。「神様、助けて!」不思議な事に、練習を重ねていたお陰だろうか、曲が流れだすと自然にメロディーが、歌詞が口から出だした。良かったと思うのもつかの間、上唇が、歯にくっついて降りてこない。指でつまんで引き下ろそうかと思う位にくっついている。今想い出しても、空怖ろしい思いが甦る。
 後で聞くと、緊張をしていたのは私だけではなく、ご招待したお客様それぞれに、前の人の背もたれをしっかり握りしめ歌い終わるやいなや、やれやれと肩の力をゆるめて「ああ、しんど」と言ったそうだ。
 自分の事の様に緊張して下さった友人に心より感謝した一日だった。

-fin-

11/11

【課題】 一番緊張する時

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