top of page

甦るおばばの声

 「この指輪、貴方のじゃないですか?」少々刺々しい声で、茜は久美子に、ルビーの指輪を突きつけていた。8畳ほどのその部屋の空気は一瞬に凍りついた。昨夜から、秋の社内旅行で来たこの部屋の、朝からの一つの事件である。
 健康食品を扱うこの会社で、ベテランの茜は、20年選手で、何かに付けて、気配りもでき、羨望的な存在である。一方久美子はまだ社歴1年で、到底30歳には見えない程、軽々しい所がある。華やかな雰囲気の持ち主で、お洒落にはかなり、お金も気も使っていて、男性にはとても人気がある。新しい服や装飾品を買うと自慢気に見せびらかす所が同性に反感を買うのかも知れない。会社の給湯室や洗面所で、手を洗ったり顔を洗ったりする時、彼女には指輪やブレスレットを取りはずして、手を洗う癖がある。その指輪をそのまま忘れて行って「誰か私の指輪知らない?」と騒ぐ悪い癖もあって、同僚達はいつも迷惑を、被(こう)むっていた。被害者の一人でもある茜は、今朝久美子の悪い癖に、我慢が出来なくなったのであろう。
つい大きな尖がった声で、詰(なじ)ったのであった。
 中堅所の完子(かんこ)は、日頃憎めない性格の久美子をかばい、茜にも
「もう少し優しく注意してあげたら」と言っていたのだが、今日はどうひいき目に見ても、茜の言うのが解るわとえらく納得していた。その指輪は、布団の下に転がっていた。朝食に行っている間に旅館の人が、布団を片づけに来るものだ。そんな時その人達が知らずに踏むで足を怪我するかも知れない。又は布団と一緒にたたみ込まれて、押し入れに紛れ込んでしまうかも知れない。ひょんなことから、出来心を持ってしまう人も出てくるかも知れない等々。折角楽しい旅が、いやな想い出になるかも知れないと、次々想像を巡らして行くと、やはり軍配は茜に上がる。
 完子(かんこ)はおばあちゃんに育てられ、結構社会に出てから役に立つ、常識を教えてもらった様に思う。社内旅行等では、着飾って行くものではない。回りの人に恥をかかせない程度の服装で、動き易すく清潔感があれば良い。アクセサリー等は失っても惜しくない度程の物にしておく。よしんばそれを忘れたとしても、取りに戻る事を諦める事が出来る位の物。そうすれば回りの人に迷惑をかけなくて済む。そんな風に刷り込まれて来た。今朝の小さな事件は、茜の完璧主義も解るが、悪い事とは解っていても止められないと言う久美子の人間くささが、可愛げに繋がるのではないかと、結婚を目前に控えた完子は、おばばの「結婚したら、両目でみるなよ。片目で見るんだよ」の言葉が甦って来た。
誰でも欠点がある物、片目で良い所だけを見る様にしようの、教訓を想い出した。
空には雲一つない気持ちの良い秋空だった

-fin-

2010.10.14

【課題】 「この指輪、貴方のじゃないですか?」から始まるフィクション

bottom of page