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たった一枚の紙切れ

 愛煙家だった輝彦も、世間の風が肩身の狭い居心地の悪さを感じさせ、とうとう、十日前から禁煙に踏み切った筈だった。離婚届の用紙を前にして、気がつくと煙草を手にしていた。
 一昨日妻との口げんかを振り返りながら、売り言葉に買い言葉がエスカレートして「君の捻くれた、ひがみは我慢できない」と、心にもない事を言ってしまった。一旦口から出た言葉は、もう口には戻す事は出来ない位の事は、分かっているのだが、その事が一つのふん切るきっかけになったのかも知れないとも思っていた。が恐らく妻は自分の全人格を否定された様に受け取ったであろう。彼女にも良いところは沢山あるから、決してそんな言葉を吐く積りはなかったのだが、案の定妻の綾子は「思ってもみない事、口に出て来ないものよ」と切り返してきた。綾子はいつも僕の言葉尻を捕まえて、いかに自分が正しいかを競い合っている様に思える。僕は綾子と言葉遊びをする積りはない。どちらが正しいかを競い合う積りもない。もううんざりした。綾子の云うことは正しい、そして確信を突く鋭さもある。だからかも知れないが、その事が僕を幸せにしてくれた事は一度もない。常にピリピリして神経がすり減る。そんな僕と一緒にいて、綾子は寛げるのだろうか。僕の様な平凡な男ではなく綾子に相応しい相手がいると思う。先程から煙草を燻らしながら行き着いた結論であった。
 お見合いの席で、第一印象の良かった綾子を、良い人を紹介して貰えたと、叔母に感謝をした一瞬を想い出す。叔母の家で出されたお茶に、珍しく茶柱が立っていた。最近簡易なティーパックが主流になって来ているので茶柱が立つ機会などあまりなく、妙に茶柱が立っている事が勇気に繋がった。昔質気の祖母は、結構茶柱が立つと良い事があると口癖の様に言っていたので、子供の頃から刷り込まれていた感があった。僕は緊張のあまりその湯呑茶椀に手がひっかかりひっくり返してしまったのだ。その時「しまった!」と稲光の様に一本の光が頭をよぎった。そそうをした恥ずかしさと、幸運を逃がすぞと云う無念さとが、混ざった一瞬が、今鮮やかに甦って来た。あの時の判断が間違ったのだと、古風な考えに我ながら笑えて来た。
 宅急便屋が鳴らすインターホンに、輝彦は現実に引き戻された。セコムの画面に映し出された玄関先には、いつもの元気な配達人が爽やかな笑顔で立っていた。彼もバツ一だと聞いていた事を思い出し親近感を覚えた。重そうに持っている箱は見覚えのあるリンゴ箱の様に見える。きっと青森の母が美味しい蜜の一杯入ったリンゴを送って来て呉れたのであろう。バツ一の彼は元気よく二階まで駆け上がって来て呉れた。彼はとても幸せそうに見えた。たった一枚の紙きれの重みから解き放たれた様に輝彦も彼の様に、元気になれると、信じてリンゴ箱を受け取った。

-fin-

2009.11.10

【課題】 茶柱

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