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逢いたかった手

 もう30年も昔の話、私もまだ40歳を越えたばかりの、今から思えば、青臭い頃だった。彼とは広告関係の仕事で知り合った。背丈もあるし、甘すぎるマスクではあるが、通りすがりの女性を振り返らせるには、十分な容姿だった。又その頃煙草は、魅力的な小道具の一つだった。男性も女性も、煙草の持ち方、吸い方を研究した時代だった。
 私の好みではなかったとは言え逢う度に彼の手の美しさに見惚れていた。
繊細でいて、男らしさを備え、清潔感があるその手は、指先の細そりした形で書類をめくる時の動きや、ライターを弄ぶ時の仕草、ちょっと困った時の戸惑いの現れた様子に何度もうっとりしたものだ。

 男性の手と言う物は、肉体的な特徴や心のありようを表していると思う。下品な男はやはり下品な手をしている。誠実な男は指の長さや、爪の形そして手の平の肉厚感のバランスが取れているものだ。
 「眼は心の窓」と言われるが、手はそれ以上の信頼性がある。手を握ったり、腕を組んだりする間柄にはならなかったが、あの手で抱きすくめられたら、きっと、とけてしまっただろうなと、残念にも思うが、仕事一途なその頃の私には、例え彼の誘いがあったとしても清く正しくを地で行っていただろう。今となれば華やかな想い出の1ページとなっている。
 
 そんな彼が十数年ぶりに訪ねてきた。
会社勤めをやめ、独立をしたそうだ。使われている時には、色んな不満もあったろうが、やはり自分が会社を興すとなると、不足に思っていた事の一つ一つが、有難かったと思えるらしい。色んな人の支えがあって、大きな仕事も出来たのだと、思い知らされると言っていた。彼もきっと苦労をしたからこそ、そんな言葉が出たのだろう。
 彼も還暦を迎える歳になって、でっぷり太り、昔のイケメンぶりはちょっと色あせていた。でも人懐っこい性格は変わらず、しばらく、想い出話に花が咲いた。お互い歳をとったなあと言う思いで、食事を共にした。
 残念な事に、あの魅力的な手は、どこへ行ってしまったのだろう。口にこそ出さなかったが、あの手に逢いたかったなあ。

 ⒖歳も歳上の私こそ、彼にどんな風に映っていたのか、恥ずかしさが込み上げてくる。綺麗な事は、周りの人をも幸せにするものなんだ。毎日「すっぴんは気持ち良い」と言って、化粧もしない私だがこれを機会に少しは、身綺麗にしようと思った。

-fin-

2013.9

【課題】 手、爪、指にまつわる事

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