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あんたは、偉いやっちゃ!

 働き者のその人は、夫を見送った後10年も長く生きて96歳になるまで黙々と働いた。
 双子の男の子の孫を、1歳から育てていたので、本当に可愛くて仕方がない様子だった。幼稚園への送迎もずっとその祖母がしていた。嫁の私は14度も転職をする夫と共に、仕事を持つ様になったからだ。子供と言うものは出掛ける前に限って熱を出したり、大人の大事な場面に風邪をひいたり手こずるものなのだが、姑(はは)がいてくれていると言う安心感で、スケジュール通りの行動が取れたのは、何よりに大きな支えになった。最初の頃は出掛ける両親の後にすがりつき、泣き叫んだ子供達もいつの頃からか両親は出掛けるものと思って習慣づけられた。
「お祖母ちゃん、ちょっと孫にあま過ぎるのんと違う?」と夫に語り掛けても、気のない返事が返って来るだけだ。厄年の夫は、たち上げた会社を、何とか軌道に乗せなければと言う事で、頭の中がいっぱいであったのだろう。子供の教育等に気を配っている余裕はなかった。
〈お祖母ちゃんちっとも、孫に怒りはれへんし、あの子等我儘になってしまうかも、わかれへんわ〉と内心不安と不満でイライラしていた私だった。でも姑として嫁に何一つ不満をぶつける事もなく、むしろ転職を重ねる、だめな息子に協力してくれる嫁だとも思っているのか、温かく接してもらえていた。
 40年程前の世間は転職を罪悪とでもいう様な目で見たものだ。しかし50年も夫と共に歩んで来られたのは、彼が不真面目だったり、飽き性で仕事を替えていたのではなかったからだ。いつも何らかの不運が原因だった。芽の出ない時って本当にあるものだと思う。今その頃を振り返っても、あのもがいていた時は苦しかったなあと思う。幼稚園児の親御さん達にも、姑(はは)は私の本当の母の様に映っていたらしい。
 阪神淡路大震災の時も、夫は福岡へ私は東京へ出張中だった。そんな中、姑(はは)は気丈に私達留守の家を守り、立ち働いてくれた。転職を続けた末に最後のチャンスだったファッション関係の会社が成功できたのも、姑(はは)の支えがあったからだと思う。陰の一番の功労者だ。一人息子の私の夫が、ろくでなしで、甲斐性なしだとの烙印を捺されなかったのも、息子を思う母のお陰だろう。
 その双子の子供達も、男の厄年を迎える様になったが、心配する事もなく、常識をわきまえ、仏壇には手を合わせ、自ら墓前に参る心優しい人間に成長してくれた。本当に我慢強い、努力家の姑(はは)に、感謝をしても仕切れない。
 もうすぐ姑(はは)の命日が来る。あちらの世界でも、又陰の働きをしているのだろうか。大正時代に育った粘り強さに脱帽である。

-fin-

2011.1.13

【課題】 「貴方に会えて良かった」と言う人をテーマーに

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