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凛と咲かそう一輪の花

 「お帰りなさい」「遅かったのね」と云わなければ良い一言を又口にしてしまった。少し歯車が合わなくなっている夫に、久美は苛立ちを感じた。それは夫、謙にと言うより疑念を追い出せない自分に対してだった。寝室へ向かう謙の後ろ姿に、ほのかに匂う懐かしい香りを感じた〈何だった? 何の匂いだった?〉と記憶をたぐり寄せた。〈そうだ! 堀川の香だわ〉と思い出した。洞爺湖のお洒落なホテルで何度目かのデートの日、丁度15年前の事だった。

 5歳上の謙はチャコールグレーのスーツに、タイで買ったと言うネクタイをしていた。パープル地に小さな像が規則正しく並んでいるそれは、とても彼に似合っていた。
「夢を叶えるぞう~の、像なんだ」と、照れ隠しの様におどけて見せた。久美は淡いピンク色のジョーゼットのワンピースで、歩く度にふわふわと揺れてスカートの裾がまるでスイトピーの花びらの様だった。その清潔感と女性らしさにすれ違う人々は遠慮勝ちに、静かな視線を寄せて来る。謙は誇らしげに久美の手をとり、カフェからホテルの庭に出よとした。謙の気どりのない時々見せる、とぼけたひょうきんな明るさや、飄々として自信に満ちた振る舞いに日ごとに虜になって行く久美だった。何処からともなくとても良い香りがしてきた。
「とってもいい匂い」
「本当だね。何処からするのだろう?」
「ちょっとこの匂い追いかけて見ません?」ふたりは悪戯をする時の子供の様に、その匂いを、鼻を頼りに突きとめに行った。階段を地下に降りて行くとお茶室が現れた。その入口にお香が焚てられていた。
「ここだったんだ」と二人は微笑んだ。ホテルの人に聞くと、それはお香の老舗、松栄堂の〝堀川〟と言う名の匂いだと教えられた。それ以来久美は、自分でも部屋にそのお香を焚てる様になった。だがそんなお香を焚てる習慣も忘れ去り、怠惰な毎日を過ごしている久美は、つい謙の帰りが遅い事にイライラしていた。
 何故、彼から堀川の匂いがするのだろうかと、疑問を持ち始めた久美に、ついにその謎が解ける日が来た。札幌の狸小路の片隅に、お香の店を経営する桜(さくら)子と逢瀬を楽しんだ日に、必ずその匂いをさせている謙に気が付いたのだ。30歳と言う若さと生活力のある桜子に、自分でも驚く程の嫉妬が燃え上がった。それはおせっかいな久美の従姉が、教えてくれた情報だった。
 独身時代カラーコーディネーターとして活躍していた頃の活き活きした久美ではなく、鏡の中の暗い顔は我ながらもギョッとした。こんな敗北は耐えられない。謙にむしゃぶりついて甘えたいのに、泣きだす一歩手前で涙を抑えてしまう勝気さを久美は自分でも可愛くない女だと思うのだった。〈まだ間に合うだろ〉久美の中に残っている一輪の花が散り去る前に、夫を待つだけの生活を断ち切ろう。せめて元の魅力ある自分を取り戻してから、もう一度謙の心を引き戻そうと決意した。

-fin-

【課題】 なごり花

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