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癒えぬ傷

 住居用洗剤を扱う外資系の会社に勤める咲子は38歳になる。もう社内でも古株で周りから大奥と呼ばれていたりして、勘に触る事もある。しかし英語力に於いて社内で咲子の右に出る者はいない。彼女を支えているのは、そんな自信と誇りなのかも知れない。仕事が一段落した咲子は、気分転換に広報部の部屋を覗いてみた。そこには彼が入社以来弟の様に可愛がっている田辺翼がいたからだ。
「忙しい?」と声をかけると
「頭が忙しいんです」
「あら、いっかどの事言うじゃないの」
「先輩、何か良いアイディアーありませんかね?」
「ハイハイ、何でも聞いて下さいよ」
「実は来年の会社案内書を作ろうとしているんですが、予算が、全然なしで作れと無茶な命令なんですよ」
「あらそれは、言う方も勇気がいるわね。会社のイメージを上げる事の為に予算なしでつくれとは、社長も分かってないんじゃないの」
「でしょう。でしょう。だから今ない知恵を絞っている所なのですよ」
「それは社長の作戦にはめられたわね」
「それってどう言う事ですか?」
「お金を使ってする仕事なら、誰でも出来るわ。そこを一工夫も二工夫もして、田辺ちゃんの脳ミソをかき回せ! と言われているのよ」
「かき回せば、良い知恵出て来るんですかね」
「田辺ちゃん、喜びなさいョ。あなた社長に見込まれたのよ」
「へえ!?」田辺はキョトンとした表情で
「兎に角掃除をした後の清々しさを出せる様な、爽やかなモデルを使いたいのですよ」と頭をかきむしった。
「優秀なカメラマンとモデルだけで、僕らの3倍から5倍の給料が飛んじゃいますよね」とブツブツ言いながら部屋の中を端から端まで行ったり来たりして周りの事は目に入らない様な気配だった。咲子も気分転換のために部屋をひょいと覗いたばかりに、何とか出来ないものかと、翼のもやもやを、引き継いでしまった。
 翌朝翼は咲子の部屋を覗いた。ガラス張りの部屋の中はもうすでに、仕事モードに入っている。そんな咲子をノックして、入っても良いかと目線を送りドアーを開けた。いきなり
「先輩、いい事思い付いたんですよ」
「へえ~、ずっと考えてたんだ。偉いわ」
「僕の友人の姉きが、ちょっといかす姉きなんですよ。モデルじゃないけど、十分使えると思うんで昨夜早速電話したんです。するとその姉き、面白そうね。私今丁度仕事やめて、何か技術を習得しようと思っていた所だから、時間あるの。と言ってくれたんです」
「だったらかなり安いモデル料でOKと言う事なのね」
「そうなんです。でも次はカメラマンの調達ですよ。先輩何とかなりませんかね」
「ああ、私今思い付いたわ」と咲子はどうしてこんな事に気が付かなかったのかと言う様な表情で
「知ってる! カメラマン!」と左の手の平を右のこぶしで強く打ちながら
「私そのカメラマンに貸しがあるの。そうそう思い出したわ! 絶対引き受けさすわ!」もう咲子は電話のボタンを押していた。
 翌日会社の応接室にカメラマンの刈谷透を迎え入れていた。初めましてと、お互に名刺交換をして、田辺と刈谷はソファーにかけるなり
「織部さんには、足を向けて眠れないのですよ」と田辺に咲子とのいきさつを説明し出す刈谷だった。
 それは数年前の事。咲子が雨宿りしていた所に、刈谷も駆け込んで来た拍子に転んで、足の骨を折ったらしい。その時に助けた貸しなのだ。刈谷にすれば無様なバツの悪い出会いを、今更ながら振り返って
「本当にあの時は助かりましたよ」と頭をかいた。
「単刀直入に申し上げます。予算のない会社です。出来るだけお安く、お安く引き受けて欲しいのです」と咲子は申し出た。
「織部さんのお願いですから出来る限りの勉強はさせて頂きます」とにっこり笑った。
「じゃ決まり! 私の役はこれで終わり。後はお二人でどうぞ進めて下さい」と咲子は自分の部屋に戻って行った。

 数日後スタジオに現れた涼子は初めてのモデルの仕事にも、ものおじしていない。カメラマンの刈谷が涼子に
「僕は美人を一層美人に撮りますからね。楽しみにしていて下さいよ」と自信半分和ませ半分の慣れた手つきでシャターを切っていった。翌日の屋外ロケもチームワーク良く、とても和やかな雰囲気で進められた。モデルを良い気分にさせるトークに、すっかり涼子は刈谷の虜になっていた。

 出来栄えを見た社長は「こんなに経費を切り詰めて、ここまでの出来上りは見事なもんだ。予算0円と言っていたが、そんな事が出来る訳もなく、かかった費用は当然出します。材料が揃わないと出来ないと言う様な考えは捨てて、田辺君の様な仕事をして欲しい。自分のもてる能力、特技、人脈すべてその人の財産です。よってここに社長賞として表彰します」なんと晴れがましい朝礼であろう。田辺の目は糸の様に細く、こぼれる様な笑顔とはこういう事をいうのだと、咲子も誇らしげに拍手を送った。
 実は咲子には、一人の弟がいたのだ。15年前に、咲子の運転する車で事故をし、大怪我をさせてしまった。そして命まで失ってしまったと言う悲しい過去があったのだ。不可抗力であったと言うものの、私が殺したも同じと咲子の、心の傷は未だに癒し切れていなかったのだ。弟の顔と翼の顔が、ダブってとめどもなく涙があふれて来て、仕方がない咲子だった。又困った事があったら、手伝ってあげようと密かに誓いながら、翼のあの笑顔を又見たいと思った。

-fin-

2010.11.18

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