お口の中も綺麗にね
シャンソン仲間の40代のHさんはスタイルも良く舞台に立っても舞台映えがする。上背もあり中々御洒落だし、私達80歳に手の届くお婆々とは比較にならない。同じ舞台に立つ時は、客席の目が彼女にそそがれるのは紛れもない事実だ。
楽屋で出番を待つ間も彼女はずっと顔をいじっている。〈どこに、どれだけ手を掛けるの?〉と、私は思ってしまう。私達はどこをどういじって良いかも分からず、退屈と緊張を交互に感じながら出番を待っている。
丁度温泉に行っても長湯をする人を、〈何所を洗ってそんなに時間がかかるの?〉と、烏の行水の私は思ってしまうのと同じ様な思いになる。
彼女はお化粧にもかなり気を使い、色々と新しい道具を取り揃えている。拡大鏡、つけ睫毛数種、キラキラ光るラメ入りの香りの良い頬紅、潤いのある口紅、目鼻立ちを際立たせるドーラン、肌や手に塗る水白粉(みずおしろい)等々。私達年寄りは珍しさで見入るばかりだ。
それ程お洒落に関心のある彼女だが、疲れた時はお化粧も落とさないで寝てしまうと言うのだ。決してお洒落ではない私だがそれは許せない。いや私には出来ない事なのだ。どんなに疲れていても、お化粧はさっぱり洗い流して、ベッドに就きたいと思っている。
この歳になると、今しがたした事を忘れてしまう事がよくある。例えば数種の薬を飲む順番を間違えたり、飲んだのか飲まなかったかを想い出せなかったりする。ついこの間まで、そんな年寄りを笑っていた筈だが、現実は残酷にも容赦なくやって来ている。
そのお洒落な、まだ若い彼女が歯を磨いた時、いつもと違う歯磨きの味に気が付いた。それはチューブに入った洗顔クリームだったと知った時、慌てて口の中を濯(すす)ごうとした。これがいけなかった。得も言われぬ味が口中に広がり、上顎から歯茎まで、渋い苦いギシギシしたものが貼り付いてしまったらしい。すぐに吐き出すべきだったのだ。慌てれば慌てる程収拾が付かない事態になる物だ。飲み込んでは、いけないと思うと余計にその液体が喉を伝って行く。
その時の事を、顔をゆがめて苦々しく話してくれた。
〈口の中まで御洒落して、どうすんねん?〉と突っ込みを入れたくなったが、これは嘘の様な本当の話だ。
-fin-
2016.9.1
【課題】 嘘の様な本当にあった話