top of page

どっちが悪い

 JR芦屋から電車に乗り込むと、有難い事に四人掛けボックス席の一席が空いていた。よっこらしょと腰をかけると、向かい側の一人の女性が、電車の揺れる中、大きな鏡を取り出して、目の化粧をやり出した。付けまつ毛を器用に付けマスカラーをつけ、次にアイラインを引き出す様は、きっと何時もやっているのであろう、手慣れたものである。私はその器用さに、見とれて舌を巻いた。その隣の女性は、やたら大きな音で、訳の分らん音楽を聴いている。イヤホーンから音が漏れて、うるさい位である。よく鼓膜が破れない物だと、呆れてしまう。と言うより難聴になりはしないだろうかと、老婆心ながら心配してしまう。私の隣の女性は、小説らしき本を、静かに読んでいる。この音楽のうるさい中で、気にならないものだろうか、よほど集中力の訓練が出来ている人なんだろう。どの一人を取っても、私には真似の出来ない事ばかりだ。
 電車の中のマナーも、とかく言われがちだが、決して注意する人もいない。怖くて出来ない事。それとその後の気まずい空気を想像すると、なかなか勇気が出て来ない。 内心どんな親に、育てられたのかと、あきれ返ってしまう。
だが20代の子供の親となれば、私達の子供の年齢に当たる。そんな親を育てた親は、結局私達昭和10年代前後の人だと思う。そんな風に思うと、時代の流れも人間のDNAの如く、プラスにもマイナスにも受け継がれて、リレーされているのだろう。
 まつ毛を付ける女性には、その人の育ちが分ると言おうか、結局同レベルのお相手しか近寄って来ないだろうし、難聴予備軍の、彼女には、本当に注意をしてあげたい気持ちいっぱいだけど、うるさいなあって顔されるだけだと思って、誰も注意しないのが現実。読書の彼女には、偉いわねと、褒めてあげたい気分だけど、それも出来ない。ここでこの彼女を誉めると向かいの二人に、じろっと睨まれて、読書の彼女に冷たい視線が向けられる事を考えるとかえって、迷惑かなと思ってしまう。結局不愉快な思いをじっと我慢して、自分の降りる駅を待つばかりの私は、ただただ恥ずかしく、それからは反省の時間に変って行く。
 そんな事を思うと、近頃の若者はと、若者を責めるだけではなく、若者を育てなければいけない大人がいけないのではないかと、思い悩んでしまう。今の日本やはり国を挙げて、教育に本気で取り組んで欲しいものである。せめて心ある大人が一人一人の各家庭で、自分の子供、孫位にはまっとうな教育をしなければと思う。でも孫達の話を聞いていると、学校に行くと多勢に押され、正しい事を貫くと、いじめに合わないとも限らないと言うから、ほとほと困ったものでる。少なくとも、学校にクレームをつける親にだけはなって欲しくないと思う今日この頃である。

-fin-

2011.6.7

【課題】 対比対象物

bottom of page