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怖ろしや、恐ろしや

 ドアーを開けるともう靖男はカウンターの前に座っていた。カウンターの中では、バーテンがシェイカーを高々と振り上げて、いつもの様にカクテルを作っていた。
「いらっしゃいませ。お待ちかねですよ」と爽やかな笑顔で迎える。
「おう、お待たせ。遅れてすまん」と大介は靖男の隣に座った。
「お前の呼出には慣れているけど、今日はやけに暗いぞ。
どうした?」
「いや、参ったよ」と本当に困り切った様子だ。 

 結婚して10年になる大介は、子供もいない事もあって、自由を束縛されない幸せな生活を送っている。2歳上の杏子は妻として申し分もなく、大介の我儘を寛大に見てくれている事は、いつも心の中でありがたいと思っている。
有名なビール会社に勤める大介は社内でも享(う)けが良く、順調に仕事も運び38歳と言う男盛りには順風満帆な日々だった。
 一年ほど前、帰宅途中、急に雨が降り出し雨宿りに入った店で、偶然社長秘書の宮本エリに出遭った。仕事上の話を交わした事はあるが、社外で言葉を交わすのは初めてであった。その時の笑顔、
上品なしぐさ、まるで映画の一シーンの様なお洒落な出遭い方すべて、大介の好みに合っていた。その後話を交わす様になり、何時の頃からか、秘かに逢瀬を、楽しむようになっていた。エリも社長秘書と言う立場上、かなりリスクの高い逢瀬だった。だからお互いに、ばれない様かなりの神経を使っていた筈だった。
「しかし女の勘って怖いね」と大介。
「何でばれたの?」靖男は乗り出してきた。
「俺の女房すごく鼻が効(き)くんだよ。目は近眼で見えない分、鼻がその数倍良いんだよ。僕が帰って来た時、匂いで一日の行動が分かると言うんだもの」
「どんな鼻してんだい?」興味深く靖男が聞く。
「まるでシラノの鼻の様に大きくなって、その先っちょがどんどん伸びて、鶴の嘴(くちばし)の様になって、おまけにそれが透明でね、俺には見えないんだよな」
「そりゃ、厄介だな。でもそんな話聞いた事ないぜ」
「恐ろしい位、俺の行動を言い当てるんだ。中華街の近くのホテルで会っていただろうとか、花屋さんに寄ったであろうとか、ケーキ屋さんに立ち寄ったとか、もうお手上げだね」
「それで、どうしたんだい?」
「だから、秘書のエリさんとは別れる事にしたよ。でも話はついた物の、会社に居ても家においても気まずくてね。仕事が手に着かないんだよ。あれは一つの霊感みたいなもんだね。つくづくこれから先が空恐ろしくて」と、まるで生気を抜かれた亡霊のようだ。
「まあ罪滅ぼしに、どこか旅行にでも連れて行ったら?舞台が
変わり、一晩も寝れば、許してくれるよ」と大介を慰める靖男の目に、入って来たのは、小刻みに震えている手でシェイカーを振るバーテンだった。
 何故なら、そんな恐ろしい女とは知らずに、火遊びをしてしまい
今正に人妻杏子の虜になってしまっている男だったから。

-fin-

2011.5.2

【課題】 体の部位を使って、奇想天外な事

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